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大阪地方裁判所 昭和29年(ワ)5265号 判決

原告 川田小三郎

被告 天野利三郎

主文

被告は原告に対し金八十七万五千円及びこれに対する昭和二十九年八月十二日以降支払済まで年六分の割合による金員を支払うべし。

訴訟費用は被告の負担とする。

本判決は原告において金二十万円の担保を供するときは仮に執行することができる。

事実

原告は主文第一、二項同旨の判決並びに仮執行の宣言を求め、その請求原因として、被告は昭和二十九年八月九日振出地、大阪市支払人株式会社大阪銀行歌島橋支店、金額八十七万五千円なる持参人払式小切手一通を振出し、原告は現に右手形の正当な所持人であるが、同年八月十一日右小切手を支払人に呈示してその支払を求めたところ、これを拒絶されたので、支払人をして支払拒絶の宣言を右小切手に記載せしめた。よつて被告に対し右小切手金八十七万五千円及びこれに対する呈示の翌日である同年八月十二日以降支払済まで小切手法所定の年六分の割合による法定利息の支払を求めるため本訴に及んだと陳述し、

なお本件小切手は昭和二十五年九月九日原告が訴外中井恒三(当時中井証券株式会社代表取締役)に金八十万円を貸与した際、その支払保証として、同人から受領したものであつて、金七万五千円は利息である。右小切手受領の際振出日は白地であつたが、同訴外人は目下中井証券株式会社は整理中で、同会社の営業所である土地建物を処分の上、原告に通知するから、その際振出日を原告において補充の上振込まれたいとの事であつた。爾来同訴外人から何等の通知なく原告は本件小切手を放置していたが、昭和二十九年六、七月頃調査したところ、同訴外人は既に死亡せる事実を知つたので、振出日を補充して本訴に及んだものであると補述し、

被告の主張に対し、

大蔵省が証券業者の資産を調査する場合は、裏付ある手形、小切手は積極財産として認めるが、借り小切手の如く裏付なき小切手は財産として計上せざるものであるから、本件小切手が被告主張の如き事情によつて中井恒三に交付せられるが如きことはあり得ない。のみならず、被告は昭和二十七年頃中井証券株式会社の訴外吉村長次郎に対する債務が、被告との共同債務であることを認め、訴外会社が吉村に右債務の支払をなし得ないのは、被告が訴外会社に債務の支払をしないことが重大原因であると詫び減額を要求していた事実があるから、本件小切手も被告の訴外会社又は中井恒三に対する債務の支払のため振出されたものであること明白である。

白地手形又は小切手の補充権の消滅時効は、手形又は小切手の交付を受けたときから進行を開始するものであるから本件小切手について云えば、原告が中井恒三から本件小切手の交付を受けた昭和二十六年十月から進行を開始するものである。そして補充権の時効期間は、二、三の下級審裁判例を除いては、何れも二十年とせられているのみならず、仮に五年なりとするも、本件小切手の補充は昭和二十九年八月九日になされたものであるから、その間五年を経過していない。仮りに三年の時効の適用があるとしても補充権の消滅は善意の第三者に対抗し得ざるものである。

また本件小切手の振出日の補充並びに支払呈示を原告代理人がなしたことは争はないが、当時原告は銀行取引なく、振込の途がなかつたので、原告代理人は、原告の委任に基き自ら振出日を補充し自己の取引銀行に振込んだものであつて、本件小切手の権利を譲受けたものではない。この事は本件訴訟が原告名義をもつてなされていることに徴しても明白である。弁護士法第二十八条は弁護士が係争権利を譲受ける意思をもつてこれを譲受けることを禁止する趣旨であつて、係争権利を依頼者のため保全し或は取立てるため、自己に取得する意思なくして自己の名義となすことを禁止するものではない。のみならず、仮に原告訴訟代理人が本件小切手上の権利を取得し、補充権の行使をなしたとしても、原告訴訟代理人は右小切手の支払拒絶後本件訴訟の委任を受けたのであつて、右委任によつてはじめて前記規定に所謂係争権利となるものである。従つて原告訴訟代理人の補充権の行使或は支払呈示は未だ係争関係なき間になされたものであるから、何等弁護士法に牴触するものではないと陳述した。〈証拠省略〉

被告は原告の請求を棄却する、訴訟費用は原告の負担とするとの判決を求め、答弁として、被告が原告主張の小切手の振出人欄に署名捺印したことは認めるが、右小切手は単に訴外中井証券株式会社に対し大蔵省の資産検査に際し見せ金として使用するため貸与したものである。白地小切手なりや不完全小切手なりやは署名者の意思を標準として決すべく、本件小切手は他人をして振出日を補充せしむるの意思をもつて流通に置かれたるものでないから白地小切手にあらず、不完全小切手であつて当然無効のものである。

原告は本件小切手を取得するについて重大なる過失あり正当なる所持人というを得ない、蓋し原告が本件小切手を取得したのは昭和二十六年十月であつて、原告はこれより先昭和二十五年九月中井証券株式会社に同会社振出の約束手形を見返りに現金八十万円を貸付けたが、同会社は昭和二十六年七月廃業し、貸金の回収到底不能と見えた同年十月本件小切手を得て先の約束手形と交換したのであるが、振出人たる被告が全然未知の人間であり、且つ振出日の空白なるを見ては、当然被告自身につき中井証券株式会社に処分の権限ありや否やを確むべきであるのに、この事なくして本件小切手を取得したのは原告に重大なる過失ありたるものといわなければならない。

仮に然らずとするも、本件小切手の白地補充権は時効により消滅している。小切手の白地補充権の時効期間については小切手法に全然規定なく、学説も亦これ論じたるものがない。手形の満期が白地なる場合その補充権の時効期間について或は二十年、或は十年、或は五年、或は三年、或は一年とせられ、にわかにこれを断定し難い。しかしながら二十年説は補充権が単に形成権なることを理由とするものであつて、長きに過ぐ、おもうに商行為によりて生じたる債権の時効期間が五年なること、見方を代えれば原因関係の債権の時効期間が五年なることを考えれば、長くとも五年を越える必要はない。小切手において振出日の白地なる場合その補充権の時効期間は、所持人の為替手形の引受人又は約束手形の振出人に対する手形金請求権の時効期間が三年なること、小切手の所持人の支払人に対する小切手金請求権の時効期間が六月なること、小切手は支払の委託に過ぎず、経済的には現金同様の機能を営むことを併せ考えれば、手形のそれより短期間でよい筈である。恐らく三年をもつて足るものとなすべく、尠とも五年を越える必要は認められない。ところで本件において振出日の補充は原告代理人によつてなされ、支払呈示も原告代理人名義でなされている。従つて当時本件小切手の所持人は原告代理人であつたとみるの外はない。然るに原告代理人は、弁護士であつて、弁護士は依頼者より係争権利を譲受けてはならない(弁護士法第二十八条)から、原告代理人は本件小切手の権利者たり得ない。権利者たり得ざる者によつてなされた白地の補充は無効である。原告が本訴を提起したのは昭和二十九年十月二十五日であるから、この時をもつて権利行使となすべく、換言すれば原告として補充権の行使はこの時になされたものである。然るに被告が本件小切手を作成交付したのは昭和二十四年九月下旬であるから、この間五年以上を経過している。従つて小切手の振出日の補充権の時効期間が三年であるとしても、或は五年なりとしても、本件小切手の補充は補充権の時効消滅後になされたものである。

仮に然らずとするも被告は権利失効の抗弁を提出する。即ち解除権を有する者が久しきに亘りこれを行使せず相手方においてその権利はもはや行使せられないものと信頼すべき正当の事由を有するに至つたため、その後にこれを行使することが信義誠実の原則に反すると認められるような特段の事由がある場合には、もはや右解除権の行使は許されないものと解するを相当とする。本件において被告が本件小切手を振出したのは昭和二十四年九月下旬、原告がこれを入手したのは昭和二十六年十月であること、原告は本件小切手を多額の負債を負つて倒産した証券会社より貸金の回収のため取得し、その際小切手の出所に付いささか不審の念を抱きながらも、とも角入手しておいたものであること、以上の事情にも拘らず原告は直ちに右小切手上の権利を行使せず、四年十ケ月余(原告が取得してからは二年十ケ月余)を経過して、これを行使していること、他方小切手の振出人に対する債権の時効が六月なることを考えれば、本件小切手の補充権は既に失効しているものと解すべきであると陳述した。〈証拠省略〉

理由

証人山野種男、同多田健夫の証言、被告本人尋問の結果を綜合すれば、被告は昭和二十四年九月末頃訴外中井証券株式会社代表取締役中井恒三から同会社が大阪財務局より資産の検査をなされたる場合に備えるため、同会社の資産不足額約八十七万円を金額とする小切手一通を貸与せられたく、同会社において右小切手を使用したる節は直ちに同会社より同額の小切手を被告に振出交付すべき旨依頼せられてこれを応諾し、検査の際、同会社代表者中井において振出日を記入し得るよう振出日を白地とし、金額を金八十七万五千円とする本件小切手一通を訴外会社に振出交付したことが認められ、甲第三号証の一、二、証人中井四郎の証言によつては右認定を覆えすに足りない。

以上認定の事実に徴するときは、被告は尠とも訴外会社が本件小切手上の権利を行使(財務局の検査ありたる場合にはこれを現金化すること)することあるべきことを予期して右小切手を振出交付し且つ白地補充権を訴外会社に与えたものであつて、本件小切手は単なる不完全小切手にあらず、白地小切手なりと認めるを相当とする。

次ぎに振出人欄の成立に争のない甲第一号証、証人河本尚の証言及び原告本人尋問の結果に弁論の全趣旨を綜合すれば、原告は昭和二十五年九月訴外会社に金八十万円を貸与したが、昭和二十六年十月頃同会社から右貸金元利金債務の担保として本件小切手の交付を受け、六月乃至一年内には同会社の整理(同会社は昭和二十六年七月廃業し、当時整理中であつた)完了する見込につきそれまで右小切手の振出日の記入及び支払呈示を待たれたき旨告げられて原告はこれを了承したこと、原告は約定の期間経過後同会社に前記債務の支払を督促したが、支払をなさなかつたので、昭和二十九年八月上旬河本尚弁護士に本件小切手を交付し、小切手金の取立を委任し、同弁護士は右小切手の振出日欄に昭和二十九年八月九日と補充し、同月十一日取立のため自己の取引銀行である神戸銀行北浜支店に払込んだが支払を拒絶されたので、適法な支払拒絶の宣言を記載せしめた上、その返却を受け、次いで原告より右小切手金請求訴訟提起の委任を受け昭和二十九年十月二十五日本訴を提起したことが認められる。

そして原告が本件小切手を訴外会社より取得する際、冒頭認定の如き事情の存在を知つていたことはこれを認むべき確証がないから、被告は右事情の存在をもつて原告の対抗し得ないものである。

被告は原告は本件小切手を取得するについて重大なる過失があると主張するが、前記認定の如き事情の下において、原告が本件小切手を取得する際、被告自身につき、訴外会社が本件小切手を処分する権限ありや否やを確めなかつたとしても、原告に重大なる過失あるものというを得ず、被告の主張は採用し得ない。

被告は振出日白地の小切手の補充権の時効期間は三年と解すべく、長くとも五年を超えるものと解すべきではないと主張し、白地小切手の補充権をもつて、商法第五百一条第四号に所謂「手形其他ノ商業証券ニ関スル行為」に因りて生じたるものに準じ、その時効期間も商行為に因りて生じたる債権のそれに準じ、同法第五百二十二条を準用して五年なりと解することは可能(尤も大審院は白地手形の補充権につき、これをもつて一般私法上の契約に因り発生したるものとなし、且つ補充権が形成権に属し、債権にあらざるところから、その消滅時効については民法第百六十七条第二項の適用ありとなし、二十年をもつて時効期間なりと判示している。)であるけれども、それが三年であるとの見解は、小切手が現金同様の経済的機能を有し且つ所持人の支払人に対する小切手上の権利の時効期間が六月なることを考慮に入れるも、なおその根拠が薄弱であると考えられるから、直ちにこれを採用することができない。

そして被告が本件小切手を振出したのは昭和二十四年九月末、河本弁護士が補充権を行使したのは昭和二十九年八月九日であること前記認定の通りであるから、その間五年を経過しておらず、小切手の補充権の時効期間が五年なりとの見解を採るとしても、本件小切手の補充は補充権の時効完成前になされたものというの外はない。

被告は本件小切手の振出日の補充及び支払呈示は原告代理人たる河本弁護士によつてなされているから、当時同弁護士は原告から本件小切手の小切手上の権利を譲受けていたものとみるべく、弁護士法第二十八条は弁護士が依頼者より係争権利を譲受けることを禁止するから、河本弁護士によつてなされた補充は無効であると主張し、持参人払式小切手の所持人が単純にこれを第三者に交付したる場合には、仮令取立委任の目的をもつてなされたときと雖も、小切手上の権利は第三者に移転するものと解すべきであるけれども、弁護士法第二十八条に所謂係争権利とは訴訟の目的となつた権利であつて、現にその訴訟中であるものを指称するものと解すべく、河本弁護士は本訴提起前原告より本件小切手金の取立を委任せられ、振出日の補充をなしたこと前記認定の如くであるから、同弁護士が取立のため原告より本件小切手の小切手上の権利を譲受けたことは、何等弁護士法第二十八条に違反しないものといわなければならない。そして本件小切手の補充権も小切手上の権利と共に河本弁護士に移転したものと解すべきであるから、同弁護士によつてなされた本件小切手の補充及び支払呈示は有効である。

また弁論の全趣旨に徴すれば、原告は、本件小切手の支払が拒絶せられた後、河本弁護士に右小切手金請求訴訟の提起を委任し、本件小切手はその儘同弁護士の手許に止め置かれたること明らかであるから、原告は占有改定の方法によつて本件小切手の占有を取得し、その所持人となり再び本件小切手の小切手上の権利を取得したものと解すべきである。

被告は、原告は所謂権利失効の原則によつて本件小切手上の権利を行使することを許されざるものであると主張するけれども、前記認定の諸事情の下においては、いまだ被告において本件小切手上の権利がもはや行使せられざるものと信頼すべき正当の事由を有し、また原告の本件小切手上の権利の行使が信義誠実に反するものと認むべき特段の事由があつたものとは認められないから、被告の抗弁は採用し得ない。

然らば被告に対し本件小切手金八十七万五千円及びこれに対する支払呈示の翌日である主文第一項記載の日以降支払済まで小切手法所定の年六分の割合による法定利息の支払を求める原告の本訴請求は正当であつて、これを認容すべきものである。

よつて民事訴訟法第八十九条、第百九十六条を適用し主文の通り判決する。

(裁判官 岩口守夫)

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